2月7日(金) 午後1時~ 午後7時~(夕勤行)
日蓮正宗では、日興上人を末法下種の三宝のうち、僧宝の随一と拝します。大聖人様が 「仏宝・法宝は必ず僧によて住す」(『四恩抄』御書268㌻)と御教示されているように、仏宝である日蓮大聖人と、法宝である本門戒壇の大御本尊を尊ぶことは、僧宝の教えによって知ることができるのです。それは日興上人が、大聖人様の仏法を厳護し、いささかも違えることなく後世に伝えられたからです。
この日興上人の広大な御恩徳に御報恩申し上げるために、日興上人の祥月命日に当たる二月七日に、興師会 (日興上人御報恩法要)を奉修するのです。興師会では、常に粗衣粗食であった日興上人が、特に若芹を好まれていたと伝えられていることから、芹を御宝前にお供えします。

日興上人への御報恩のため、興師会に参詣いたしましょう。
●日興上人の御生涯
日興上人は、寛元四(1246)年三月八日、甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢(山梨県南巨摩郡富士川町)に誕生されました。幼少のころから聡明さが他に抜きんでておられた日興上人は、長じて四十九院に上って仏法を学んだほか、漢学や歌道・書道を修められました。その能筆の才は後年、大聖人様のお手紙を代筆されたり、重要な御書を写し取って後世に残されるなど、今日もその御筆跡を拝することができます。大聖人様に日興上人様が初めてお会いしたのは、『立正安国論』御述作に当たり実相寺で一切経を閲覧されていた時で、大聖人様の尊容と御高徳に触れ、直ちに入門を願い出られました。大聖人様は伯耆房と名付けられ、入門を許されました。

以後、身に影の添うが如く、常に大聖人様のお側でお給仕申し上げるかたわら、甲斐・駿河・伊豆・遠江等の各地において折伏弘通の法将として活躍されました。特に熱原法難では、大聖人様の御教導を受けた日興上人の指導により、熱原の法華講衆は熱原法難を乗り越え、泰然と妙法の信仰を貫いたのです。日興上人は常に大聖人様にお供して、特に伊豆御配流や佐渡御配流では、艱苦を共にされました。このような常随給仕を通じて、日興上人はおのずと大聖人様を末法の御本仏と拝信され、大聖人様の仏法を体得されたのです。

弘安五(1282)年九月、日興上人は、大聖人様から『日蓮一期弘法付嘱書』をもって一切の仏法を付嘱され、十月十三日には「身延山付嘱書』をもって身延山の別当(一寺の統括者)と定められました。大聖人御入滅後、ほとんどの弟子は権力を恐れ、師敵対の大謗法を犯しましたが、日興上人は身延山に在って、いささかも大聖人の仏法を曲げることなく、正義を守り抜かれました。ところが後年、身延に登った民部日向の教唆により身延の地頭・波木井実長が四箇の謗法を犯し、日興上人の再三の訓戒を聞き入れなかったことから、日興上人は断腸の思いで身延を去ることを決意されました。
日興上人は、このときの御心情を、
「身延沢を罷り出で候事面目なさ本意なさ申し尽くし難く候えども、打ち還し案じ候えば、いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候わんこそ詮にて候え(中略) 日興一人本師の正義を存じて、本懐を遂げ奉り候べき仁に相当って覚え候えば、本意忘るること無くて候」(原殿御返事・聖典560㌻)
と仰せられるように、御本仏日蓮大聖人様の下種仏法を受け継ぐお立場から、大聖人様の仏法を永遠に護持し、末法の衆生を救うために、本門戒壇の大御本尊をはじめ、一切の重宝を捧持して謗法の山となった身延を離山されたのです。

そして正応三年十月十二日、大聖人様の
「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(日蓮一期弘法付嘱書・御書1675㌻)との御遺命に従い、四神相応の勝地・大石ヶ原を本門戒壇建立の地と定め、大石寺を創建されたのです。
大石寺を創建された日興上人は、日目上人を第三祖と定め、血脈法水を内付され、重須の地に談所を開創し、門下の育成に当たられました。そして、元弘三(正慶二・1333)年二月七日、本門弘通の大導師・白蓮阿闍梨日興上人は、八十八歳を一期とされ、薪が尽きて火が消えるように、安祥として御入減されました。
※この文章は、大日蓮出版「日蓮正宗の年中行事」を参照しています

